TAKURO(GLAY)のアマチュア時代を語る1/5

 

TAKURO(GLAY)の歴史1of5【函館時代の極貧生活。ビートルズがきっかけで音楽好きになる。高校で初バンドを組む】

 

 ~~(この記事は、僕のYouTubeトークの文字起こしです)

天野です。本日のアウトプットです。 今回は「GLAYのTAKUROさんの歴史」ということで語っていきます。

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TAKUROさんは、函館生まれ、函館育ち

 

TAKUROさんは、1971年5月26日に生まれました。 函館生まれ函館育ちです。

3歳の時に交通事故でお父さんが亡くなられたということですね。 本当にわずかな記憶しかないということです。

で、お母さんとお姉さんがいたようです。 お母さんは保険の外交員をやってらっしゃって、 お姉さんは4歳上の方ということです。

TAKUROさんは小さな頃から音楽に興味があったとのことです。

 

とはいえ、何か楽器を習っていたとかいうことではなくて、 「音楽を聴く環境があった」っていうことですね。

たとえば、お母さんがシャンソンのセミプロ活動をかつてされていたようです。

お母さんは日常の中でよく歌っていたようです。 TAKUROさんはそういった歌によく小さい頃から接していたってことですね。

そういった影響もあるのか、TAKUROさんも自然に音楽が好きになりました。 たとえば小学校4年生の時に初めて買ったレコードが、寺尾聡さんの「ルビーの指輪」です。 それと、神田正輝さんのアルバムが欲しくて 町中探し回ったなんてこともしていたようですね。

 

函館では有名人のライブがあまり行われなかった

 

当時、函館では、あまり有名人のライブが行われませんでした。

だから、TAKUROさんは、無名な人のコンサートをよく見に行っていたそうです。

今、GLAYはなるべく函館で多くライブをするようにしています。で、その理由は、TAKUROさんが函館時代に思っていた 「函館ではあまりライブが行われない」 という思いから、ということです。

 

 ~~(この記事は、僕のYouTubeトークの文字起こしです)

 

 

TAKUROさんの家は、経済的に苦しかった

 

TAKUROさんの家の環境は・・・ お父さんがお亡くなりになられたということで 経済的にはかなり厳しかったようですね。 電気をよく止められたそうです。

TAKUROさんの著書(「胸懐」)に「印象的な出来事」として書かれていたことがあります。それは・・・

小学校6年生の時に、 ラジオでポールマッカートニーの特集がされるということで、 それを凄く楽しみにしていたのですね。

なので、それを「録音しよう」と待ち構えていたときに、いきなり電気が止まりました。 夜だったので、真っ暗になったとのことです。

でも、「ポールマッカートニーの音楽を録音したい」という思いが強かったので、 家の中を電池を探し回りました。そして、なんとか見つけて、 その電池をラジカセに入れて、やっと録音できたそうです。

まあ、「貧乏ネタ」ということですね。 とても苦労されてます。

 

TAKUROさんがビートルズに寄せる思い

 

TAKUROさんがビートルズに寄せる想いは物凄く大きいものがあります。

ご自身が今、年齢重ねるにつれて 「今、この年齢だったらビートルズ的にはあれをやってた頃だな」 みたいな事を、重ね合わせて考えるようです。

TAKUROさんは、中学校2年生の時にビートルズのカセットテープを買いました。

それは、ビートルズの名盤といわれているいわゆる「赤盤」です。 それを、雑誌の「売ります、買います」のコーナーで中古で買ったようです。

「FM STATION」という雑誌です。 その雑誌は、僕もよく読んでいました。「売ります、買います」コーナーは名コーナーとして人気がありましたね。

僕も、そのコーナーでいろいろなものを買いました。 まさか、TAKUROさんも利用していたとは(笑

TAKUROさん的には、家が裕福ではなかったので、「売ります、買います」でなるべく安く買おう、ということでいつもチェックしていたみたいですね。

そして、入手したこのビートルズの「赤盤」を、擦り切れるほど聴いたそうです。

 

 

 

 

中学2年生のとき、TAKUROさんは、詩を書き始めた

 

ちょうどこの頃、中学校2年生の頃なんですけど、 TAKUROさんは詩を書き始めたそうですね。

曲よりもまず詩を先に書きはじめたそうです。 普通の人は、詩よりも曲の方を先に書き始めます。 なぜなら、その方が簡単ですからね。

曲なら、楽器さえできれば、適当に楽器をかきならしていれば完成します。 で、そうやってできた曲に詩をつけはじめるのが普通です。

 

でも、TAKUROさんの場合は逆だったんですね。 単に「音楽」ということで考えず、「言葉」を大切している今のTAKUROさんのスタイルは、こういった行動からもよくわかります。

それもちょっと書いたとかそんなんじゃないんですよ。 もうノートがですね 「4冊、5冊と溜まってった」っていいますから、 相当凄いですよね。

どういうような詩を書いたかっていうと、「知ってる曲の替え歌」みたいな感じで書いていったようです。

そういう風に詩を書き始めて、どんどん書き続けていくうちに 当然、「メロディの方も書きたいな」っていうような気持ちになりました。

これは自然な流れですよね。 そういうこともあって「やっぱりギター買おっかな」と思ったわけです。

で、通信販売でギターを買い、ギターを練習してメロディも作り始めました。

 

TAKUROさんがはじめて作った曲のタイトルは「函館」

 

TAKUROさんが一番最初に作った曲は「函館」っていう曲です。 でも、あまり印象には残ってないとのことです。

中学生当時に作った中で印象深いのは「ジャケットを貸せ」という曲とのことです。

この「ジャケットを貸せ」っていう曲はお姉さんと揉めたことを書いたものです。 当時、お姉さんから「ジャケットを貸してくれ」みたいなことを言われて揉めたことがあったようです。 そのことを書いたってことですね。

この曲をお姉さんに聴かせたら、苦笑いしていたみたいです。

 

高校時代に、TAKUROさんは人生で初めてバンドを組む

 

やがて高校生になり、初めてバンドを組みました。コピーバンドですね。

名前は「ゲシュタポ」です。とんでもない名前なんですけど、 TAKUROさんは当時はその意味をよく知らずに、ノリでつけたようです。 ご自身でも、「とんでもない名前をつけたもんだ」と著書で振り返っておられます。

しかし、このバンドはすぐに解散しました。 メンバーがあまり真剣じゃなかったから、だそうです。 TAKUROさんが「こんなんじゃやってられない」って思い始めて、 「もっと真剣なものをやりたい」と思って、次のバンドを作りました。

それがGLAYです。

凄いですよね。 学生時代からずっと今でも続けていて、しかも売れ続けているバンド。 それがGLAY、というわけですから。

こういう例は僕はあまり知りません。 僕が知っている限りだと、GLAYのほかには、Buck-Tickぐらいですね。

次の記事に続きます!)

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