とまべっちーさんがサービス業化した弁護士を批判している件について

天野です。

とまべっちーさんがブログにて弁護士批判をしています。ざっくりと言うと、「お金儲けのためにやっている弁護士」に対する批判ですね。僕もそういう弁護士はどうかと思いますが、かといって批判するほどのことか、というと、そうではないとも思っています。その理由について書きます。

 

今の日本は、成熟社会である

 

今の日本は、成熟社会です。高度経済成長期のように、単にモノを作れば売れるわけではありません。みんな、生活必需品はすでに持っているわけです。

なので、需要を作って売らなけれいけません。

 

高須克弥氏の、有名な言葉

 

わりと有名な話だと、高須クリニックの高須克弥さんの「需要は作るもの」という話があります。高須さんの場合は、「女性は二重じゃないといけない」とか「男の〇〇は嫌われる」ということをマスコミやCMで打ち出し、「手術を受けたい」と思わせることで多くの収益を得ました。

また、ファッションの世界でもよく行われています。「今、それを着ているとダサい。モテない」という空気を作り出して、新たなブームを作って売ります。アイドル歌手の世界でも、CDは本来なら一枚だけ買えば十分なのに、何枚も買わせるように仕掛けます。

はっきり言って、これらは皆、不要なものです。人々はいちいち「仕掛ける側」の戦術に心を惑わされるのです。ごく普通に、平和に暮らしていた一人の人間に対して、「お前の持ってるそれ、カッコ悪いよ」と何度も何度もCMで言い聞かせ、本当に自分がカッコ悪いかのように不安を煽ります。

そして、新たな商品を買わせます。

こういうやり方は、はっきり言って僕も嫌いです。過去を思い返してみれば、ずいぶん、不安を煽られたなあ、と思います。実際、ムダなものもずいぶん、買いました。

しかし、日本が成熟社会である以上、それは仕方ないことなのです。もしこれがダメというのなら、多くの人が仕事を失うことになります。なので、弁護士がサービス業化し、新たな需要を作ろうとしているのも、仕方ないというしかありません(もちろん、これが健全な状態とは思いませんが)。

 

 

 

とまべっちーさんは、お金儲けが嫌いなようだが・・・

 

とまべっちーさんのブログを見る限り、「お金」がからむことがあまり好きではないようです。資本主義社会そのものに疑問を呈しています。

もちろん、僕も資本主義社会が完璧なものだとは思っていません。もっと社会は進化する余地があると思います。しかし、少なくとも今は、日本は資本主義なのです。なので、そのルールにのっとったものである限り、どんな商売でも良しとしなければなりません。

たとえばとまべっちーさんは、清水有高氏を批判していますが、その批判の理由は、清水氏がキラキラしたイメージでYouTube視聴者を”公開洗脳”して、清水氏の商品を「欲しい」と思わせ、収益化しているからです。

でも、よく考えたらこれって、上記の高須克弥さんや、多くの企業がやっていることと全く同じですよね?つまりキラキラしたCMをバンバン流して人々を洗脳し、「欲しい」と思わせて買わせるという手法です。

「お金を取るのはけしからん!」というのは、資本主義社会にはそぐわないのです。世の中の共通の価値基準は、今のところお金しかないのです。

たとえば、民事裁判なんかでも、お金で解決します。負けた方が「許してください!私が悪かった。土下座でもなんでもする!」と言ったとします。しかし、たとえそれが本当の気持ちであったとしても、裁判に勝った方は、「本当に反省しているのかどうか」などわかりません。なので、共通価値基準であるであるお金を介して解決をはかります。

また、好きな女性に告白するときも、いくら「好きだ!」と情熱を込めて言ったとしても、プレゼントが安物だったら、「本当に好きなのかな?」と疑われてしまいます。

まあ、こんな世の中、僕もどうかしていると思いますが、現状、共通の価値基準はお金しかないので、仕方ないのです。

 

問題になるのは、明らかな詐欺事案、もしくは危険な行為

 

もちろん、いくら資本主義社会だからといって、問題になる事案はあります。それは、明らかな詐欺事案や、危険な行為です。

たとえば、「お金を払ったのに、商品を提供しない」という場合。これはアウトです。または、「商品は提供されたものの、客が期待したものとの落差があまりにも激しいもの」ですね。

それと、「暴力を使って買わせた」などの場合ですね。ぼったくりバーなどがその典型です。

そうして見た場合、清水有高氏の商品はどうでしょうか?

まず、クレームがほとんどありません。僕は「もしクレーム事案があったらコメント欄にて教えてください」と過去の記事に何度も書きましたが、そういう情報はいっさい、来ていません。ネット上を見ても、そういう声はあがっていません。

あくまで「詐欺」というのは、かつての豊田商事のようなもの、または、マンガ「闇金ウシジマくん」の登場人物がやっているようなものを言います。

清水氏の場合は、そういうものとは異なります。

仮に、清水氏の売っている商品が、某宗教団体のように、「危険な思想」を植え付けるものであれば批判されるべきですが、清水氏の場合はそうではありません。

もちろん、見る人が見れば清水氏の商品は質に問題があるとも言えますが、買っている人が満足している限り、問題はありません。人の好みはそれぞれです。「分厚い心理学の本がいい」という人もいれば、「サルでもわかる心理学」みたいな本の方がいい、という人だっています。

なので、お金を払ってモノと交換した結果、買う側が納得している限り、今の日本の中では「成立している」と言うしかないのです。

 

「スラップ訴訟批判」もおかしい

 

とまべっちーさんは、スラップ訴訟も批判しています。しかし、これもおかしな話です。

スラップ訴訟とは、平たくいえば「訴訟しまくる」ということです。たとえばとまべっちーさんが批判しているのは、ジャーナリスト(会社も)が訴えられまくることです。

たしかに、むやみやたらと訴訟されたら、ジャーナリストは何も言えなくなり、言論の自由が侵されることになります。しかし、そもそも、しっかりと節度を持って批判すれば誹謗中傷になんてならないのもまた事実です。

そこらで売られている雑誌の見出しを見てください。ひどい言葉のオンパレードです。もちろん、そうやって「強烈な言葉」を使った方が消費者の目を引いて、雑誌が売れるということはあるでしょう。

しかし、そういう「強烈な言葉」は言われた方の名誉を棄損することになります。また、単に「強烈な言葉」というだけでなく、芸能人のプライベートを追っかけたり、私生活での不祥事を暴いたりすことさえあります。

いや、プライベートを暴くだけならまだマシです。中には、全くの捏造記事を書かれることだって普通にあります。

こういうジャーナリズムに反抗する人は、当然いるでしょう。そういう人が、「スラップ訴訟」という戦略を用いてマスコミに対抗することは、ある意味では「仕方のないこと」ともいえます。

つまり、物事には原因があって、結果がある、ということです。「スラップ訴訟」を起こされるような状況には、「原因」がある、ということです。そして、そこに弁護士が目を付けて、ビジネスとして裁判をするのも、また社会としての自然な姿です。

 

 

 

 

個人で起こす「恫喝裁判」批判も的はずれ

 

また、とまべっちーさんは個人で起こす恫喝裁判も批判しています。これは、「ほんのささいなこと」で裁判を起こし、何百万円もの賠償金を要求するような例です。

そもそも、こんなことをする人は、普通の人ではありません。いつの世も、そういう人はいます。つまり、街中でカツアゲするような人です。しかしそういう人は、ごく少数です。とまべっちーさんは、まるでこれが一般化しているかのように言いたいようですが、そんなことは全くありません。

よく考えてみてください。「普通の人」がこんなことをするのは割に合わないですよね? だってそんなことをすればまず、そのことが周囲に知られ、人間関係が崩壊しますよ? それに、そんなひどい賠償金を、裁判で負けた側があっさりと払うとも思えません。徹底的に支払いを拒否するでしょう。

その場合は強制執行の手続きを取るわけですが、強制執行するための銀行口座、勤務先など、勝った方が自分で調べなければなりません。それには多額の資金と手間がかかります。

なので、こんな「訴訟ビジネス」は普通の人はやりません。なので、とまべっちーさんは「あまりに心配しすぎ」だと言えます。

 

とまべっちーさんが思う理想の社会は、僕も実現を望む社会

 

僕ととまべっちーさんの思想は根本的に同じです。

僕もとまべっちーさんも、閉塞した社会に疑問を持っています。つまり、誰もが会社でこき使われ、パワハラにおびえ、まわりの目を気にしながら生きなければならない社会に、ということですね。

ただ、その現状を打破するための方法について意見が違うと感じています。

僕はこちらの記事で書いたとおり、それぞれの個人が、直接、モノ申すことで現状を打破していく必要があると考えています。

一方、とまべっちーさんの場合は、直接ではなく、間接的にモノ申していくことで世の中を変えようとしています。匿名で批判していくなどの方法ですね。

ただ、僕がとまべっちーさんのこのやり方に疑問を持つ理由は、「間接的にモノ申す」ことは、たしかに一時的には非常にやりやすい方法です。が、結局は、その方法が蔓延することで、社会がますます閉塞化に向かうと思うからです。

なぜなら、直接的にモノ申す場合は、当事者だけの問題となります。しかし、間接的にモノ申す場合は、当事者だけでなくあらゆる方向から批判の声が飛び交うことになるからです。

これは、「モノ申す側」にいるときは快適ですが、「モノ申される側」に立ったときは脅威となります。なにせ、社会の誰もが、「モノ申される側」になる可能性があるのですから。

特に、今は「匿名での書き込みのモラル」が出来上がっていない段階です。こういう状況では、匿名をいいことに好き勝手に、あることないことを書く人が多くなります。

人は、聖人君子ではありません。誰でも、ミスをすることはあります。そこを徹底的に突かれて、スマホで写真まで取られてばらまかれる危険性もあります。いや、それならまだいい方です。

全く自分は何も悪くなくても、誤解から誹謗中傷されることさえ普通にあります。しかも、それを書き込んでいるのがいったい誰なのか、わかりません。これはまさに「監視社会」です。つまり、閉塞した社会ですね。

だからこそ、僕は当事者が勇気を出してモノ申すのが当たり前の風潮ができあがる必要があると感じているのです。たしかに、直接言うのは、ハードルは高いです。しかし、その方が長い目で見れば、開放的な社会ができあがる可能性が高いのです。